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2009年 08月 16日
涼しさや


・涼しさや袂(たもと)にあまる貝のから(一琴)
(『古句を観る』柴田宵曲著(岩波文庫)より)

夏休みを海や山へでかけて満喫した人がおおいことだろう。
上の句は元禄時代の無名の作家の俳句を集め、評釈した滋味あふれる書の中からの一句だ。

海へ行ったお土産に拾った貝殻を袂に入れ帰るときの歌だろう。
袂に入れた数個の貝殻が擦れ合って音が鳴る。なんと涼しげだなあと詠ったものだろう。

そろそろ夏休みの宿題をやり終えてしまわないといけない時期が来た。
楽しい思い出に採集した昆虫や貝殻の標本作りをする子どもたちも多いことだろう。
お盆が過ぎるとあっというまに夏は行ってしまう。
この照りつける夏の日の様々なことを覚えておこう。
この子ども時代を、青春を、朱夏を・・・。
やがて秋が来て冬が来るように、人生も朱夏が過ぎれば玄冬がせまるのだから・・・・。

# by worldy | 2009-08-16 23:47 | 随筆
2009年 08月 05日
パンツと喪失
花も恥らう女子高時代のこと。
清純なセーラー服の制服に身を包んでバス通学していたある日。
父がゴルフの景品でとんでもないものをもらってきた。
それはストッキングを吊るすガーターと云う奴だった。
(今ではまたお洒落な女性が身につけるようになったらしいけれど)
わが家では誰もそんなものは身につけない。
どうしたはずみか私のタンスの中にそれは入れられた。
それはかつてはあのロートレックの絵にでてくるパリの娼婦たちが身につけるものでもあった。
好奇心と反逆心と冒険心に満ち満ちていた私は退屈な女子高生活にあきあきしていた。私はこともあろうにそれを清純な制服のしたに着て行くことにしたのだった。
その日は服装検査の日だった。
まじめで上品な良家の子女たちばかりで違反するものなど誰も居ないのである。
まさか下着までチェックすることはない。
物理の時間も数学の時間も上の空。
制服の下にはあのロートレックの絵と同じものが・・・
実はまだ書かなかったことがあった。
それはガーターの他に美しいレースに縁取られたスイス製のパンツもはいていたのだった。

ここからは後半部分

友だちのララにこっそりそれらを見せた。いつも誰にも見せられないような無粋なパンツをはいていた私。この美しいパンツを見たララはこういった。「これであんたは一歩も後へ引けなくなった。覚悟するのね」
繊細な美しいパンツを身につけると心を縛り付けていたもろもろのものから急に自由になった。難攻不落の巨大な壁が突然消えたかのようだった。

その夜わたしは喪失した。

後半部分終わり!

きゃ~あァ!すごいことを「ろこ」は告白しまったなあ!と思ってここで投げ出しては困るのである!!!!!
前半部分は本当の話であるけれど、後半は米原万理さんの著書『パンツの面目ふんどしの沽券』からの引用である。

今日はとんでもないイントロでブログが始まった。
今日は惜しくも天国に召された米原万理さんの著書『パンツの面目ふんどしの沽券(こけん)』(ちくま書房)を読んだのでちょっといたずらっけをだしたわけだ。

蛇にそそのかされて性愛と知恵を授かった人類の祖アダムとイヴは、とたんに生殖器をさらしているのが恥ずかしくなって隠すようになる。イチジクの葉が「人類最初のパンツ」と呼ばれる所以(ゆえん)。
しかしここからが肝心!
年頃の娘が大切な人に見られるのを死ぬほど恥ずかしく思っているのは、自分の体でなく、それを覆い隠す

「パンツ(の醜さ、格好悪さ)」

のほうなのである。
いわゆる「勝負パンツ」などとはこんなところからの発想であろう。

米原万理さんの文はこれだけではない。ここからが佳境に入るのであるが、それを披露しては本書のおいしいところを全部みせてしまうのでひかえておこう。

うまい!」とおもわずうなるようなひねりのきいた上質なユーモアは米原さんの持ち味でも有る。
こうした風刺と諧謔とを交えて世評や文化を切り取って見せてくれる米原万理さんのエッセイは極上である。

今日はちょっと趣を変えた書評をしてみた。

# by worldy | 2009-08-05 14:48 | 随筆
2009年 08月 03日
お茶の話はお茶らけた!
子供の頃から客人がお見えになるとお茶だしをするのは私の役割だった。

年の離れた姉たちに半ば強制され、嫌な役割を押しつけられたからだった。

母が客間で接客している間、洋菓子を出すか、和菓子を出すか考える。

お客様のランク付けも自分で考える。

ちょっと寄っただけの客か、父の重要な客か、知己かなど。

それによって紅茶、コーヒー、ジュース、煎茶、玉露か等を決める。

和菓子となると虎屋の羊羹などを漆の菓子皿にくろもじを添えて厚めに切ってだす。

虎屋の黒餡の羊羹が大好きな私は残り少なくなると後で自分にまわってこないといけないので、客にはださず、私の嫌いな抹茶羊羹を出す。

ケーキも私の好みのケーキは客にださず、バームクーヘンをこれでもかとばかりに厚く切って客に出す。

でも大好きなケーキしかなく、しかもそれがわずかしかないときなどは、泣く泣くそのケーキを客にだす。いつもはお出ししたらすぐに引っ込む私だけれど、そんな時はそばに立って客が食べてしまうのを恨めしそうな目で眺めているので客もそんな視線に気が付くのか食べずに帰っていく。

さもしい根性の私は後で母にこっぴどく叱られる。

「もう二度とお茶出しなんかしないもん!」と言ってスカートの端を噛みながら泣きべそをかく。

客人はジャーナリスト関係の人が多く、お茶を出す私をつかまえちゃあ、ああでもない、こうでもない、誰それに似ている、似ていないと品定めをしていく。

ある日、玄関に客が来て応接間にいつもの通りお通しした。

「あの~。お名前をうけたまわりたいのですが?」と母にいつも教えられている通りに言うとその人は「お嬢ちゃん、僕の名前は「すーさん」ですと言えば分かるよ」とおっしゃる。

きまじめな私は母に後で叱られないようにしっつこく食い下がって「あのー。どちらのすーさんですか?」と大人びて言ってみた。

するといたずら好きのこの人はこういった。

「助平のす~さんだよ、お嬢ちゃん」

私は忘れないように「すけべえのすーさん、すけべえのすーさん」とお経のように暗記しながら、奥へ入って母の顔を見たらほっとして、家中に聞こえるような大声で「すけべえ~のすーさん」がいらっしゃいました~~~ぁ。と言った。

その後母はしばらく客間に行かなかった。

行かなかったのでなく、行けなかったのだった。

どんな顔をして出ていって良いやら分からなかったのだろう。

子供にお茶だしをさせるからこんなことになるのよ。

以後、私はお茶だし係りから放免された。

番茶もでばなの年頃になっても、私の出番はまわってこなかった。

(*^_^*)

つまり古い言葉で言えば「お茶をひく」ことになったのである。


# by worldy | 2009-08-03 17:33 | 随筆
2009年 08月 02日
蟷螂の斧
蟷螂の斧


進むことだけ考えて、
引くことを知らない
一匹のかまきりが
斧をふりかまえている

複眼に映る世の中は
華やかな花の香りでむせぶよう
きらびやかな陽の光に照らされて
虫たちが笑いさんざめく

草はらに取り残され
ただ斧をふりかざすかまきりよ

おまえは私
私はおまえ

この世になにも残さず
ただ振りかざした斧が一つ
草原に

おまえは私
私はおまえ










# by worldy | 2009-08-02 18:07 | 詩・その他
2009年 07月 29日
景品は世界一周(?)
昨日はとうとう朝5時まで書いていた。
締め切りは5日前にとっくにきれている。
書き上げたけれどどうも気に入らない。
結局仕上げたのは正午。
宅急便でだして次はあさってまでの締め切りの分を書くことに。
作家でも物書きでもないのに最近締め切りをきめられたものを書くようになった。
作家の先生と云うのはすごいものだと思う。
資料集めに三年、それから書き出して7年などと聞くともう私なんぞはとっくに寿命が尽きてしまっている。

頭ふらふらになって、やりはじめたのがさるところへ遊びに行くこと。
最近素敵なおじ様にめぐりあった。
趣味趣向がぴったりあって困ってしまうぐらい気が合う。
趣味が粋でいなせで、わが江戸っ子魂がやたら、ゆさぶられるのである。
あぶない、あぶない「ろこのすけ」!
とばかりに軌道修正。

私は字づらからするとどういう人間にみられるのだろうか?
まじめ。文学好き、ちょっと幼稚。だいぶ幼稚。しんきくさいことばかりかいてきっと年寄りだろう!などと思っているのだろう。
え?違う?
え?合ってるって?

実は真夜中にあんどんの油を舐めている化け猫なんです!



「このブログを見たわね~~~~~~~~~えええええ!」
などと右の手をにゃんと舐め、左の手をにゃんとなめているのだ。


「文学?それっておいしいの?どんな魚?」
「え?本の中に住んでいる小さな魚ですって?」

さてこの魚はどんな魚でしょう?

見事正解の方には世界一周のカタログをさしあげます!


# by worldy | 2009-07-29 01:28 | 随筆
2009年 07月 26日
山王書房の店主の話
どんなに遠距離でも行きたいコンサートや催し物と云うものがある。

6月の終わりごろある催し物があったそうだ。
それは今から書く書評の話の中心人物の朗読会があったそうだ。

『バーボン・ストリート』沢木耕太朗著 新潮文庫

カバーデザインが平野甲賀、装画が小島武、解説が山口瞳ときたら、もう読む前から酩酊しそうだ。

酩酊と言えば、本書はよく磨きこまれたバーカウンターに差し出されたバーボンのような味のエッセイ集である。

15のエッセイが編まれており、講談社エッセイ賞受賞作品。さりげない伏線、言葉の深み、味わいと陰影、最後に見事な落ちと、これはもしかしたらエッセイでなく小説なのではと錯覚するほど。これを解説で山口瞳は次のように評する。

『本書を読んだとき、ヤラレタ、完全にヤラレタと思ったものだ。それはノンフィクションをフィクションのように、エッセイを小説のように書く作家に遂にめぐりあったような気がしたからだ。直木賞候補作品を読む時期でもあったが、困ったことに本書は直木賞候補作品よりも遙かに小説になっている。小説になっているだけでなく作品としてすぐれている。「暫然として頭角をあらわす」という具合にすぐれていた。感動の強さ、味わいの深さがまるで違う』

まことに言い得て妙。本書を評するのにこれに勝るものはない。
心に染みいる章「ぼくも散歩と古本が好き」を紹介しよう。

古本好きの人なら、自分の通った古本屋の親父について、ひとりくらいは語りたい人物がいるのではなかろうか。東京・大森にあった山王書房の店主の話である。

『そこはどんなに綺麗な新本でも定価から四割近く値引きされていた。今はもうすっかり忘れ去られた作家の古い本も棚のよい位置に並べられ大切にされていた。古本を大事にしている姿勢が気持ちよかった。店のガラス戸には若山牧水や室生犀星の詩歌が筆写された書がさりげなく貼られており、店のどこかにはいつも季節の花が活けられていた。欲しい本が何十冊にもなると、カバンに入りきらず、残りを次まであずかってもらったりした。足が遠のいて一年がすぎたある日突然山王書房から手紙が舞い込んだ。店主の死を告げるもので、暮れになって本が届いた。追悼録と店主の遺稿集だった。それを読んではじめて店の親父はこういう人だったのかと知った。遺稿集に収められた文章は随想がほとんどで驚くほど面白い物だった。その中にこんな一編が。

店主は店を閉めた後の電灯も消えた薄暗がりでひとり椅子に座って棚に並んだ本を眺めるのが好きだったという。時代に取り残され、いつまでも根が生えたように棚から動かなくなる本もでてくる。しかし、彼は《私は売れなくてもいいから、久米正雄の本を棚の上にそのまま置いておこうと思う。相馬御風、吉田絃二郎、土田杏村の本なども今はあまり読むひともなくなった。古本としては冷遇され、今は古本屋の下積みとなっている不遇な本たちだ。マリー・ローランサンの詩の一節に「もっとも哀れなのは、忘れられた女です」というのがある。古い書物の辿る運命もまた同じで、忘れられた本は古本屋の片隅で顧みられようともしない》
ある晩、親父は店の棚にある志賀直哉の『夜の光』を抜いてきて、広げてみる。その見返しに元の持ち主の手になる走り書きが達筆なペン字で残されている。「なぜ私はこの本を売ったのだろう・・」
私には、薄暗い店の中で、この見返しの文章を見つめて佇んでいる古本屋の親父の姿が、心に深く喰い入ってくる。恐らく、彼は本を売る者の痛みのようなものがよくわかる古本屋だったのだ。金のない本好きの気持ちがよく分かる古本屋だったのだ』

古本にまつわる本は多い。しかし、かくも胸に染みいるのはなぜだろう。本好きの読者ならお分かりになるだろう。古本の話の中でも滋味にあふれたこのエッセイは絶品。

よく磨きこまれたバーカウンターに差し出されたバーボンのような味のエッセイ集。
軽妙洒脱な章ありと実に味わいがあり、15編に酩酊した。

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この店主の三十三回忌。
店主のご子息が随筆「昔日の客」を朗読なさったという。
私もこの催しに行きたかった。
今日ある人のブログでそれを知った。
この朗読を目をつぶって聴いたというブログ主さん。
感動が伝わってくるブログの内容だった。
私もこの朗読会に行ってみたかったなあ!!

私の叔父も実は古書店を営んでいた。


# by worldy | 2009-07-26 11:47 | 古本・古書
2009年 07月 25日
空蝉(うつせみ)


  空蝉(うつせみ)

蝉頃の暑き夜更けに 
訪ねびと
そは空蝉なりや 蝉なりや
夢まぼろしなりや
うつつなる まなこに映る姿なし

声なき声で鳴きいたる
過ぎこし方を眺むるに
土の思い出語りたる
暗き洞(ほら)なる彼方をば
声なき声で語りたる

天なる空は限りなく
見果てぬ夢の舞いどころ
甍(いらか)をこえて軒こえて
空飛ぶ夢はかぎりなし

いのちはかなし
夏の日の
羽ふるわせて刻むるは
命を刻む砂時計

あゝ、蝉頃の夏の夜や
甍(いらか)をこえて軒こえて
空飛ぶ夢はかぎりなし

そは空蝉なりや 蝉なりや
夢まぼろしなりや
うつつなる まなこに映る姿なし

(命はかなき蝉の生涯に想いをはせて作ってみました by露子(つゆこ))

# by worldy | 2009-07-25 10:14 | 詩・その他
2009年 07月 25日
蝉の声と直喩


2004年 岩波「図書」8月号に佐藤正午が寄せた文がある。
氏は三島由紀夫作『豊饒の海』中の蝉の声の直喩に注目。

『豊饒の海』四部作の『天人五衰』の最後に「数珠を繰るような蝉の声がここを領している」という直喩がある。

数珠を「揉む」ようなだとシュワシュワ、グリグリのような音でおそらく熊蝉だろうと推察できるが「数珠を繰る」とは数珠の一つ一つの珠を順にずらして指先で送っていくことである。はたしてどんな蝉なのだろうか?

仏壇からお数珠を出してきて私も手で繰ってみた。
水晶も、紫檀もサンゴのお数珠も珠がずらせない。繰ることもできず、音もなることもない。

はたして「数珠を繰るような蝉の声」とはどんな蝉なのだろうか?

「数珠を繰るような蝉の声」という蝉はいったいどんな蝉なのかも興味をひかれるけれど、
それよりも何よりも『豊饒の海』にはおびただしい数の直喩がなされている。

まったく三島由紀夫という作家は「言葉の達人」に他ならない。
直喩、つまり何々のように、何々するような、何々するようにという表現がおびただしいのである。

佐藤氏が調べただけでも「旗のように風のためだけに生きる」「緑の羅紗の上に紅白の象牙の球は、貝が足を出すように丸い影の端をちらりとのぞかせて静まっていた」などなど。

擬音語はありがたい。
例えばミンミンと言っただけで蝉を思い浮かべるだろうし、ジャージャーと言えば水や雨が勢いよく流れる様子がすぐ浮かぶ。

しかし、かの薄田泣菫や三島由紀夫のように、高雅な筆遣いでその趣や鳴き声やそのものの様子を描くことは言葉をつかさどるものの極みなのではなかろうか。

名にしおう名人と肩をならべようなどと大それたことを言っているのではないけれど、100に一つでも擬音語を使わず蝉の鳴き声を現すことができたなら、文を書く者の矜持が一歩前に進み出ることができるというもの。

「言葉の達人」にあらためて敬意をあらわしたい。

蝉。

なんと文人の感性を試す奴なのだろうか?


※どなたか擬音語を使わず蝉の鳴き声を現してみませんか?


# by worldy | 2009-07-25 10:00 | 随筆
2009年 07月 23日
私の肖像画
私の実物写真をおみせします。

初公開です。ちょっとだけよ。


# by worldy | 2009-07-23 23:30 | 日記
2009年 07月 23日
桐の下駄
庭もジャングルだけれど、私の頭もそろそろジャングル状態。
ショートヘアーにしたのはよいけれど、これが庭と同じでこまめにカットしないとラインが崩れてお洒落でない。

明日までに提出しなければならないものがあるのに、一行どころか、一文字もかけないでいる。
美容院へ行って頭をさっぱりさせれば良い文がひねり出せるかもしれないと出かけた。イケメン美容師さんにカットしてもらい、ゴッドハンドの別の美容師さんがシャンプー&マッサージ。
これが毎度のことながら、上手でうっとり、シャンプーされながらついいびきをかいてしまうほど。
マッサージは頭髪だけでなく、肩、首、背中まで指圧してくれる。
このマッサージが終ると目の前が急に明るくなって上半身が軽くなる。
血行がよくなった証拠だ。

JR高島屋51階サロンをでて10階以降は目下夏のバーゲンセール真っ最中。
まっすぐ帰宅するはずが各階で止まってバーゲンを漁(あさ)る。
服をとっかえひっかえ、デパート全体は私のウオークインクローゼットと勘違い。
日ごろ素通りするブランド店でとっかえひっかえ素敵な服を着てみる。
似合うけれど、お値段が「似合わない」とばかりに着てみただけ~^~えええ。
バッグが半額だったのでえいやっと買ってしまった。



浴衣もセールだったので浴衣用の帯と桐の下駄を買った。
あじさい模様の絞りの浴衣にこの帯を絞めて桐の下駄をカラコロさせて歩こう!


というわけで、明日の締め切りのことなんぞころっと忘れてバーゲンに夢中になってしまった。
帰ってからパソコンの前に座ったまま思案投げ首。
相変わらず一行も、ひと言も、半句も浮かばない。

これから明日まで必死に書きます!書かねば。書け!書こう!書くのだ!

と云うわけで、今日はここまで。


# by worldy | 2009-07-23 17:38 | 随筆


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